はじめに
「公正証書遺言を作ったあとに、自宅や預貯金を動かしてしまったら、遺言は全部無効になってしまうのでは?」というご相談は、相続の場面でとても多いお悩みです。
実際には、「一部が撤回されたものとみなされる」のか、「遺言全体が無効になるのか」で結論が大きく変わりますので、民法のルールを正確に押さえておくことが重要です。
この記事では、民法第1022条・1023条などのルールを踏まえつつ、公正証書遺言作成後に財産を売却・贈与した場合に、遺言がどのように扱われるのかを分かりやすく解説します。
公正証書遺言の基本とメリット
公正証書遺言は、公証人役場で公証人が関与して作成される遺言で、方式面で最も安全・確実とされる遺言の一つです。
公正証書遺言には、次のような特徴があります。
- 公証人と証人2名の立ち会いのもとで作成される
- 遺言者が内容を口頭で伝え、公証人が文書化し読み聞かせて内容を確認する
- 原本は公証役場で保管されるため、紛失や改ざんのリスクが低い
- 検認手続きが不要で、相続開始後すぐに手続きに利用しやすい
「公正証書だから絶対に無効にならない」という誤解もありますが、遺言能力がない、方式に重大な欠陥があるなどの場合には、公正証書遺言でも無効と判断される可能性はあります。
民法上のポイント:遺言は「いつでも撤回できる」
まず大前提として、「遺言者は、生きているあいだ、いつでも遺言を撤回できる」というルールがあります。
民法第1022条では、次のように定められています(要旨)。
- 遺言者は、いつでも、遺言の方式に従って、その遺言の全部または一部を撤回できる
撤回の方法として典型的なのは、後日の新しい遺言で内容を変更・取消しするパターンです。
しかし、民法は「明示の撤回」だけでなく、「行動による撤回」も認めています。そこで関係してくるのが、民法第1023条です。
民法1023条2項:生前処分と遺言が矛盾したらどうなる?
民法第1023条は、「前の遺言と後の遺言」「遺言と生前処分」が矛盾した場合の取り扱いを定めています。
要点を整理すると、次のとおりです。
- 前の遺言と後の遺言が抵触するとき
→ 抵触する部分については、後の遺言で前の遺言を撤回したものとみなされる(1023条1項) - 遺言と、その後の生前処分その他の法律行為が抵触するとき
→ 同様に、抵触する部分について遺言を撤回したものとみなされる(1023条2項)
ここでいう「生前処分」には、売買・贈与などの財産処分が典型例として含まれます。
つまり、遺言書に「A土地を長男に相続させる」と書いていたのに、その後A土地を第三者に売却した場合、A土地に関する遺言の部分は「撤回された」と扱われるのが原則です。
公正証書遺言のあとに財産を売却した場合の基本的な考え方
1.売却した財産に関する部分だけが撤回されるのが原則
公正証書遺言のあとに特定の財産を売却した場合、その売却行為が遺言内容と抵触する限度で、その部分の遺言が撤回されたものとみなされるとされています。
たとえば、次のようなケースを考えます(参考イメージです)。
- 公正証書遺言の内容
- 「自宅不動産(千葉市〇〇)を長男に相続させる」
- 「預貯金は妻に相続させる」
- その後
- 遺言者が生前に自宅不動産を第三者に売却した
この場合、民法1023条2項のルールから、「自宅不動産を長男に相続させる」という部分だけが撤回されたものとみなされます。
預貯金を妻に相続させる部分など、他の条項には原則として影響ありません。遺言全体が無効になるわけではないのがポイントです。
2.遺言全体が無効になるわけではない
公正証書遺言の一部に変更が生じたとしても、直ちに「遺言全体」が無効になるわけではありません。
財産の一部について遺言と矛盾する生前処分が行われた場合には、その部分についてのみ撤回が生じるのが基本です。
ただし、遺言の構成・文言・背景事情によっては、「一部が消えると全体のバランスが崩れる」などの特別な事情が問題になることもあり得るため、具体的な事案ごとに判断が必要になります。
具体的なイメージ事例
以下は、制度のイメージをつかんでいただくための事例です。
事例:公正証書遺言のあとに自宅を売却したケース
- 70代のAさんは、公正証書遺言で次のように定めました。
- 「自宅(千葉市の戸建て)を長女Bに相続させる」
- 「預貯金は長男Cと次女Dで2分の1ずつ相続させる」
- その後、Aさんは介護施設への入居資金のため、自宅を第三者に売却しました。
- 数年後、Aさんが亡くなり、相続が開始しました。
この場合、民法1023条2項の考え方によれば、「自宅を長女Bに相続させる」という部分については、売却という生前処分によって撤回されたものとみなされるのが通常の理解です。
その結果:
このように、「売却した財産だけが遺言から外れる」イメージを持っていただくと理解しやすいと思います。
「売却してもいいの?」遺言者の自由について
「公正証書遺言を作ってしまったら、もうその財産には手を付けてはいけないのでは?」と心配される方もいらっしゃいますが、そのようなことはありません。
民法は、遺言者が生前に自由に財産を処分することを認めており、遺言があるからといって、その財産処分の自由が制限されるわけではありません。
- 遺言書はあくまで「亡くなった後の財産の行き先」に関する最終意思
- 生きているあいだの生活費や介護費用などのために財産を使うことは当然に想定されている
そのため、「遺言に書いたからもう使えない」という遠慮は不要です。むしろ、売却や贈与などで大きく財産構成が変わった場合には、そのときの状況に合わせて遺言を見直すことが望ましいといえます。
どんなときに公正証書遺言の見直し・再作成を検討すべきか
次のような変化があったときは、公正証書遺言の内容を見直すタイミングです。
- 遺言に書いた不動産を売却・贈与した
- 大きな預貯金の出入りがあり、財産のボリュームが変わった
- 家族構成に変化があった(婚姻、離婚、孫の誕生など)
- 相続させたい人との関係が変わった
公正証書遺言を変更・撤回する場合には、原則として「新たな遺言を作る」方法が用いられます。
また、遺言後の生前処分や行動が「遺言の趣旨を根本から変えるもの」となる場合には、現状に合った内容に作り替えておくことで、相続人間の紛争リスクを大きく減らすことができます。
公正証書遺言が無効となる典型的なケース(参考)
本題は「財産売却で遺言がどう扱われるか」ですが、公正証書遺言そのものが無効と判断される典型例も押さえておくと理解が深まります。
主なものは次のとおりとされています。
- 遺言者に遺言能力がなかった
- 公証人に対する口授がない、方式に重大な違反がある
- 証人が法律上不適格な人物であった
- 内容が遺言者の真意に反している(錯誤がある)
- 公序良俗に反する内容である
これらは、財産を売却したかどうかとは別次元の問題です。「売却したから遺言が全部無効になる」というわけではなく、売却に関する部分が民法1023条2項のルールで処理される、という点を切り分けて考えることが大切です。
まとめ
- 公正証書遺言を作成した後でも、遺言者は自由に財産を売却・贈与することができます。
- 遺言に記載された財産を生前に処分した場合、その処分が遺言内容と抵触する範囲で、その部分の遺言は撤回されたものとみなされます(民法1023条2項)。
- 通常は、売却した財産に関する条項のみが効力を失い、他の条項(他の財産に関する部分)には影響しません。
- 公正証書遺言そのものが「無効」と判断されるのは、遺言能力の欠如や方式違反、証人の不適格など、かなり限られたケースにとどまります。
- 財産構成や家族関係が変わったときには、公正証書遺言の内容が現状に合っているかを見直し、必要に応じて再度遺言を作成することがトラブル防止につながります。
公正証書遺言を作成されたあとで財産の売却や贈与を検討されている方、あるいはすでに処分してしまって「遺言はどうなるのか」と不安をお持ちの方は、具体的な財産内容やご家族の状況に応じた個別の検討が必要となります。


